僕の願い

僕の望みはなんだろうか。毎日苦しい院試勉強をしている中ふと思った。何かやりたいことがあるわけでもない。何か実現したいことがあるわけでもない。何かほしいものはと言われても、欲しいものなんて何もない。車とか時計とか別に欲しくないし、憧れてもない。スマラサーラ師の影響か物欲というものが乏しくむしろ僕は何も持ちたくないタイプだ。つまり僕は欲というものが薄い。原始仏教を狂信的に信じていた頃は、頭は丸坊主にしてた。そして性欲があることに悩み、抗うつ剤に手を出したて割とひどい目にあったりした。やっぱり原始仏教の信者だからか欲望というものに否定的だ。

 

けど、僕の中に願いがあるとしたら、岬ちゃんみたいな彼女がいて欲しいというものだ。僕の中で、その願いは多分僕の存在理由といってもいいかもしれない。そんな情けなく僕が嫌悪するオタクと変わらない願いをずっと抱いている。その願いはとても強く僕の中ではそのこと以外に何か価値があるとも思えない。世界になにか価値を見いだせてない。それにひきこもりだったし、やりたいことというものが本当に何もない。いつも物事に対しする無気力感が僕の中で漂っている。

 

そういえば、どうして大学院にいくのだろうか?就職したくないから?でも研究もしたくない。研究なんてしてなんになるとしか思えないのだ。僕は意味を見出せない行為が本当に嫌いで、すぐ逃げてきた。けど働くのは怖い。

 

院試も間近に迫っているというのに、今更ラプラス変換を勉強している。メインの分野が全く手が出ない時の時の保険のために、部分点をかき集めたいと思って今更手を出しているが、ぶっちゃけ多分8割取らないときついから、部分点といっても意味があるかは妙だ。現状はこんな情けなさだ。院試の勉強を始めたのも7月だ。本当何やってんだろう。もっと早くから勉強しておけばよかったと後悔するばかりだ。もう専門はジタバタしてもしょうがない。英語はとにかく買った模試を解きまくるしかない。どうしようもない気がするがそれでもやるしかない。

 

やるしかないやるしかない。やるしかない

 

本当いうと、自分が何したいかわからないし、この選択が正しいのかもわからない。わめき散らしたい。神様がいるとしたら、僕は正しい道を聞きたい。ずっと間違ってきた。そしてこれからもずっと間違うだろうことを。でもそれでも僕は。

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岬ちゃんを探しに行くよ

僕は同年代の女の子と話してショックを受けた。容姿が劣化するから早く結婚したいんだって。失礼な話だと思うが、実際肌を見て納得してしまった。考えればわかる。そりゃそうだ。もう20代中盤だから。現実的になってしまうのも分かる。もう純粋ではいられない。その時、僕はある小説の少女たちを思い出した。それは「エレンディラ」や「お小針」と言った無垢だった少女たちだ。

 

ガルシア=マルケスの「無垢なエレンディラ」や「バルサックと小さな中国のお針子」のように少女たちは最初は無垢だった。だけど、「エレンディラ」では彼女を助けた青年を見捨てるように去って行きった。「お針子」では無知だった彼女を助けた青年を見捨て都会へとものすごい速さで去って行った。無垢だったエランディラは彼女の祖母のように狡猾になり、お小針は自分の若さと美しさに気づいて打算的になった。どっちも青年たちを捨てて去って行った。

 

僕はあの時代の引きこもりの例にもれず岬ちゃんがずっと好きだった。東京に出て岬ちゃんみたいな女の子に出会うのが夢だった。岬ちゃんみたいにダメな自分を肯定してくれる誰かがいてほしい。僕が生きているのも岬ちゃんみたいな女の子と一緒にいたいそれだけなんだ。その願いを今までずっと抱いている。そんな子供じみた願望が消えてくれない。

 

理想は理想だ。願望は願望だ。決して叶うことはないことはわかっている。

 

もしその願いが叶ったとしても「アンナカレーニナ」であれほど願っていたアンナを手に入れても思っていたほど幸福ではなかったように、僕も多分、岬ちゃんがいたとしても、自分の欠落を埋めることができずまた何かを探しに行くと思う。「グレートギャッツビー」のギャッツビーも「冬の夢」のデクスターも同じじゃなないだろうか。

 

こんな情けなく気持ち悪い考えを克服するためにはナンパが一番だ。世の中にはダメンズなんて人種もいるぐらいだ。きっとナンパすれば、岬ちゃんみたいなダメンズ好きな女の子とも出会えるはずさ。待ってても何も変わらない。自分から行動しないと何も得ることなんてできなだろう。院試が終わったら街に出よう。でも院試を落ちたらどうしよう。あと少しであるんだが、どうしようもないほど不安だ。さすがに院浪するほど年齢的に余裕があるわけではないんだ。就活なんてしてないし、ただえさえ普通の人より年食ってるのに、未だに働くのが怖いんだから本当笑えない。だけどあと2年間は延長したい。したいよー。

僕がレイニー河のほとりにいたらどうするだろう?

 

僕が心を揺さぶられた小説にティムオブライエンの「レイニー河で」がある。徴兵状が来た主人公がアメリカとカナダの国境線のレイニー河のほとりまで逃げて、少しの間個人経営のホテルをやっている老人と過ごすと言う物語だ。結局主人公は周りのしがらみを捨てきれずレイニー河を渡ることなくアメリカに帰る。老人の気遣いや、もう少しでカナダ側と言うところで主人公が自分の心情を吐露する描写が素晴らしい。

 

表題作の「本当の戦争の話をしよう」もリョサの「密林の語り部」やアチェベの「崩れゆく絆」と同じぐらい小説の持つ物語ると言うことをすごく考えさせられた。

 

あいにく日本にはレイニー河は存在しないから、主人公のように日本から簡単に逃げることはできない。日本という国が大っ嫌いな僕は戦争には行きたくないし国のためになんて馬鹿らしい。それに僕は日本という国を憎んでさえいる。けどどうだろう。もし戦争に行かないといけないとしたら、小説の主人公のようにただ自分が臆病だと思われたくないから戦争に行くかもしれない。僕は見栄坊だからちっぽけなプライドのために行くのかもしれない。家族や友達に臆病者だと見られるのは嫌だ、オブライエンがこのために戦争に行ったように。その一方で僕はどうしようもないほどの情けない人間だからやっぱり逃げ出すと思う。主人公ができなかった逃げると言う選択肢を僕は自分の情けなさからとるだろう。 

 

その小説の中には戦争の美しさという一説があった。僕もその戦争の美しさに魅入らされた一人だ。最近モスルが陥落したとのニュースを見てイスラム国とイラク軍やシリア軍、ペシュメルガとの戦闘の映像を貪るようにみた。モスルの市街戦での敵がすぐ間近にいる緊迫感。そして何より砲火の見せる美しい光景。アパッチの魅せる無慈悲かつ壮大な光景。自爆攻撃の最後の光。でも、そこは命が失われている。爆発の美しさの中で人の命がゴミのように燃え去っている。虚しい光景の中には確かに残酷な美が存在する。

 

Fラン生が感じるエリートやスノッブへの怒り

大学に通っているが、僕のマインドはそしてアイデンティティはずっと中卒だ、側から見るとFラン大の文学部だから中卒と変わらないかもしれないが。僕はどこまでいっても自分は中卒だと思っているし、それに負い目なんて何も感じない。大学になんの価値もないと思ってる。ただ、中卒では生きづらいし、脱ヒキしたかったから大学に行った。そして院に行くのもモラトリアムのためだ。

 

最近英語の勉強のためにWSJを読んでいるが、読んでてイライラする。主に読んでいるのはオピニオンや寄稿だが鼻持ちならなさを感じる。いかにも青白いきもそうなエリートが書いてそうな偉ぶった文章だ。

 

それでも新しいエリート層についての記事を読んだときはなかなか為になった。新興の気取り屋のクソどもについて書いてあって、なるほどムカつくなーと思ったし、トランプが勝ったのも理解できる。またWSJの記事を読み漁るとアメリカでヒラリーがどう見られているかが分かった。「ブラックスワン」や「偶然の科学」で論られていた、過去を見る時に犯してしまう過ちだろうが、ヒラリーのみたいなエスタブリッシュメントの権化が負けるのも当然だと思ってしまった。

 

トランプの演説は、オバマの格調高く難しい演説に比べると、単語も平易で適度にバカっぽくて好きだ。自国の元首があんなアホっぽい演説をすると嫌な気もするし彼のスタンスには否定的だが。

 

僕はいわゆるスノッブと言われるかしこぶった人も嫌いだ。だいぶ前の話だが、反知性主義に対してなんて本の紹介文が小説に挟まっていて、それを見たとき言葉では表せないほどの怒りを感じた。賢ぶったエリートや高学歴な奴らが嫌いだ。ムカつくしイライラする。だいたい賢いことが偉いのか?

 

勉強ができることが偉いのだろうか?僕はそう思えない。勉強なんてダサいだろ。受験勉強なんて無駄でしかない。人生役立つのは、ほとんどの人にとっては社会や英語や現代文ぐらいで、理系で役に立つといったら数学では確率ぐらいだ。一体人生のどこで微積を使うのか教えて欲しい。物理や化学なんて使うとこないだろ。そんな無駄なことを学ぶなんて人生もったいないんじゃないかと思う。こんなことを言うとアホの僻みにしか受け取られないと思うし、全くもってその通りだから何も言えない。むちゃくちゃ情けないことをいってることも分かっている。僕はどこまでいってもこんな情けない人間だ。

 

エリートの自分たちは何でもわかっていて正しいという傲慢な姿勢がイライラする。大衆をバカにしていかに自分が優れているか誇示たいだけだ。僕ら大衆にマウントして優越感を感じたいだけだろ。だから、アメリカでイギリスで反撃された。僕にはそれが気持ちが良かった。クソどもが慌てふためいている様が面白かった。物事が正しい正しくないではなく自分たちが優れていて正しいから正しいという傲慢な姿勢に鉄槌が下った気がして嬉しかった。

 

そういった海外でのエリートへの叛逆を見て僕の海外への憧れが一層強くなった。僕は中学を不登校になった時に海外ニートさんのブログを読んでいつかは海外に留学して、日本を脱出するのを夢に見てた。日本社会のクソさにはうんざりしているし、そう行った意味では日本社会に対しては僕はかなりの反社会的なマインドを持っている。なぜなら、僕は日本でははみ出しものだから。だけど、僕自身で何かしようとは思はないしめんどくさい。それに政治なんて興味ないし、選挙に行ったこともない。今後行くことも多分ないだろう。こう書くとどうしようもないくらい救いようのない奴にしか見えないかもしれない。

 

僕の書く文章から分かると思うが、僕は頭は良くないし、救いようのないほどの馬鹿なことも知っている。それの何が悪い。馬鹿でも生きている。賢ぶった奴らから見下されるのもわかっている。それに怒りを感じてる。怒りを感じて何が悪い僕が努力しなかったのが悪いのか?それはそうだろうし反論する気もない。だけど、見下されたら怒るそれは当然の感情だと思う。そしてエリートから見下さる側の叛逆に暗い喜びを抱いて何が悪いんだ。

ペスコベジタリアン宣言

僕はここ4ヶ月肉を食べていない。というのも牛、豚、鶏などの動物を食べることに罪悪感を感じているからだ。どうしてそんな気持ちにと聞かれるとありふれているがかわいそうと感じたからだとしか言いようがない。僕はこういった感情を卵に対してずっと持ち続けていた。子どもの頃から卵が苦手だ。なぜならひよこを食べているという気持ち悪さを子どもの頃に感じてそれをそのまま持ち続けているからだ。それを聞くと多分卵は無精卵だからひよこにはならないというだろう。でも僕の感情は理解してくれない。

 

僕は感情で生きている人間だ。僕はずっと自分の感情に振り回されてきた。それはスマナサーラ師のマインドフルネスやバーンズ先生の認知行動療法を何度も読んでも変えることは難しい。理性ではわかっている。でも僕は感情の赴くままに生きたい。

 

理性では僕が食べないという選択をしても世界には何の影響も与えないしただの僕の自己満足だというのはわかっている。でも感情が食べるという選択をさせてくれない。心が痛む。それに今では仔牛や仔羊のステーキを食べる人なんてダーイシュの連中と同じぐらい残忍な奴らだとしか思えない。僕はペットに関しては過激な愛護派だからシーシェパードたちの気持ちも分かる。

 

日本では感謝して食べればよいなんていって折り合いをつけたりしてる。植物も同じ命だろなんて人がいる。こういう極論は好きじゃない。疑問に思うのだが植物って同じ命なのだろうか?そうとは思えないしこんな極論をいう人も本気でそう思う人なんて一人もないだろう。僕はベジタリアンというわけではない。魚はよく食べている。なぜなら、魚なんて可愛いとも思えないからだ。サメみたいなキモい奴がフカヒレのためにヒレを切り取られてもがき苦しんでる映像を見ても笑えるし可哀想とも思えない。けどフォアグラはひどいことだと感じる。僕が食べたくないのも、牛や豚や鶏に対して憐れみを感じたからだ。ただそれだけなんだ。

 

人間なんて矛盾だらけだ。だから自分のエゴを肯定しよう。矛盾だらけで一貫性なんてない感情を肯定しよう。理性的に生きるなんてつまらない、自分の心の赴くままに生きるのが一番だ。僕はこれからもそうしたいしそういう風に生きていく。 

オラつくという言葉の魅力

オラつくという言葉はネット用語に分類されるのか?僕はもう随分と昔からネット用語というものが嫌いだ。いかにも気持ち悪いそうなオタクが使いそうだからだ。それに初めて似非関西弁というものを見たときに感じた嫌悪感は言葉で表すことができない。それでもオラつくという言葉の魅力に僕は引かれている。

 

オラつくために何をしようか?ソウルジャパンはもうすでに休刊しているし、服を買うお金が最近ない。もともと金も持っていないが、スマドラ規制のせいでバルクを何年分か買ったため金欠だ。それにオラつきたいというのもオラオラ系の男たちの自信や筋肉が好きなのであってオラオラ系自体がそこまで好きなわけではないのかもしれない。また、ギャル系の女の子は好きじゃない。

 

別に気持ち悪いオタクが言う女は黒髪じゃないきゃダメとか言うキモすぎることを言いたいわけじゃない。僕はどっちかと言うと黒髪より茶髪の女の子の方が好きだ。自分がどう見られるかを意識している人の方が好きだ。 おしゃれを頑張って自分を変えようと努力した女の子が好きだ。僕自身ひきこもりの自分を変えようとしたのが今の自分の出発点だからか変身願望が強い。だから地味目の女は嫌いだ。おしゃれに気をつかない女も嫌いだ。自分を変えようとしない奴は嫌いだ。

 

僕は自尊心が低いから自己肯定感も低いだから自分が嫌いだ。ひきこもりの間はひきこもりから脱出したい、立派な人間には慣れないかもしれないけどまともな人間になりたいそういう思い出ずっと過ごしていた。だから自分を変えたいその思いが今も強いしそれはずっと自己否定として存在している。

 

最近ジムでひかれた女の子もめちゃくちゃスリムでそしてよくランニングマシンで走っている金髪の韓国人の女の子だった。そういう走っている姿や美しくいようと髪を染めている姿が好きだ。整形でも構わない、自分を変えたいって気持ちは僕はかなりわかるし共感できるから。

オタクへの嫌悪感とDQNへの憧れ

吐き出したいことがある。僕はアニメやアイドルと言ったオタクが好むものは嫌悪している。なぜならオタクの弱さに僕の中の弱さが見えるようで嫌いだからだ。同族嫌悪と言ったもなのかもしれない。それにアイドルとや萌えアニメと言った偶像を対象にしたものは空虚なものにしか感じれない。そんな存在なんてこの世のどこにもいないんだ。オタクたちはそこに虚しさを感じないのだろうか?

 

僕がそんなことを考えるようになったのも17歳の時滝本竜彦の書いた綾波忘却計画を読んだからだ。にじ魂と言うサイトに転載されていて、それを読んだ僕はひどく心を揺さぶられたのを覚えている。ちょうど引きこもっていてアニメといったもののに虚しさを感じていた。それに何十年も追っかけていた声優オタクが結婚によって、ふと自分を振り返ってみれば自分には何もないという文章にもかなり衝撃を受けた。

 

僕には架空の存在は害であるとしか思えない。そんな架空の存在に時間を費やすならリアルを生きようぜっと思う。リアルが何かは僕にはわからないしリアルを生きたことなんてないから偉そうなことは言えない。けど僕はリアルを生きたいしそれを望んでいる。アニメなんて僕は綾波忘却計画を読んでから見なくなった。

 

オタクの対極にいるのがDQNと言われている人たちだ。僕はそういったDQN的なものに対する憧れが半端じゃないほど強い。「仲間」「地元」そういったワードにすごく引かれるし、僕と同じように中卒でありながらも働いて子供を育てている。そういった強さにすごく憧れる。僕みたいなひきこもりとは真逆な存在だ。僕はそういったDQN系にこの歳になっても憧れているから、ジムに行って筋肉をつけようとしている。まだガリガリだがこの夏が終わる頃には少しマッチョになりたいと思っている。

 

DQNの女の子に対する素直な態度がすごく羨ましい。普通の人間関係すら悩んでいる僕にはまさに神みたいな存在だ。こいつは俺の女だっという自身に満ち溢れた態度全てを見習いたいしそういう風になりたい。some just thing like this!こういう存在に僕はなりたい。ただ彼らみたいに生きたい。

 

リアルを生きよう。と言う言葉を繰り返そう。そしたらリアルを生きれるさ。オタクでないのにDQNにもなれない僕。中途半端な存在だ。だからどこにも居場所がない。そんな存在だからこそナンパをすれば、オラオラ系みたいにリアルを生きれるのではないかとナンパに対する思いが燃え上がる。